その存在にリスペクトと感謝。

BAND-MAID / Puzzle (Official Live Video)
その高いクオリティと演奏技術と才能の秀逸さに圧倒される楽曲だ。しかもこれはもっとも最近、大規模会場である東京ガーデンシアターでのお給仕の模様だ。多くのリアクターも語っているが、その始まりから「鳥肌が立つ」。そして、次から次へと泉のようにあふれ出る、KANAMIのギターリフ。間奏、ソロ、後奏に至るまで、彼女のフレーズに圧倒される。もちろん、SAIKIのリードボーカルも、MIKUのバックアップボーカルもきっちりとこの歌詞の世界観を伝えてくれる。いまさらだが、ベースラインのすごさに絡みつくドラム、MISAとAKANEがしっかりとなすべきことをやり切っている。あともう一つ、すばらしきギタリストになったMIKUを心から賞賛したくなる。

良い意味の「緊張感」に浸ることができる。それがこの楽曲の魅力だと思う。うまく表現できないのだけれども、フレーズのひとつひとつが、楽器であれ、歌詞であれ、心をめった刺しにするからだ。もちろん、それは猟奇的な意味でも、フェチズムからくるものでもない。ほんとうにすがすがしくなるほど、心が露わになっていく一瞬一瞬を、体感できるのだ。けっして「やわじゃない」。まさにこれもロックそのものだ。

BAND-MAIDを象徴するような楽曲といっていいのかもしれない。だから、クオリティはむしろアップグレードしている。聴けば聴くほど、さらにその良さを実感する。ミュージシャンシップの「すごみ」を、各々が見せつけてくるからだ。ファンの贔屓目ではない。「修行僧」のようなストイックさすら感じるのだ。リスペクトしかない。

人生の第4コーナーともいえる還暦を超えて、出会えた素晴らしきロックスター達の存在そのものに感謝しかない。

「命」に敬礼!

以前も投稿したが、今一度。ついこの間、妻の両親のお墓詣りの帰り道。山道の傍にあった倒木に、鮮やかな「桃色のつぼみ」があまりにも可愛らしく並んでいた。もちろん、それをほったらかしにはできない。何本かあった枝のうち、一本を持ち帰り、花瓶にさした。その夕方、こんなふうに見事に咲き誇った、それから1週間ほど、わがやの玄関で、可憐な笑顔を振りまいていた。


命の不思議。花はなんで、こんなにキレイで可愛らしいんだろう。何度も言うけど、これ、倒れていた木なんです。でも、その命はちゃんと、生きて語りかけてくれていた。とても嬉しく、心和む1週間だった。

一方で、暴力的侵攻で多くの「命」が奪われる日々。行き場のない怒りに震える日々、不条理なあの為政者を誰も止めることができない無力感、だがやはりあきらめてはいけないと思う。倒木の可憐なつぼみは、花を咲かせて、旅立ってしまったが、大切な思いをささやき続けてくれているように思う。

アンフェアは許さない。ウクライナに関わるすべての命を守り給え。そしてこの悪業がきびしく糾弾される時を待ち望む。

命に敬礼!

クラシック音楽。

音楽は大好きなのだが、ことクラシックだけは、まじまじと聴き入る習慣がなかった。不思議なもので、この歳になって、休日にお気に入りの喫茶店で、コーヒーをいただきながら、先日、ハンダゴテ駆使して修復したBCLラジオでFM放送を聴くことにした。もちろん店内なので、ステレオイヤホンを使う。しかもそれはBluetooth仕様、つまりラジオにはBluetoothの送信アダプタを接続しているわけ。

これで「老人が喫茶店でイヤホンでラジオを聴く」というスタイルも、少しばかり洒落た感じにアレンジできるんよ。わかるかな諸君。。。笑

いや、実に快適快適、焦らずにゆったりと過ごす時間って、こんなにも豊かだったんだよね。今更だけど、この至福の時、大切に思います。

ラジオ三昧してる。笑

子供のころ、わけもなくあこがれた箱。そこからは音楽が、楽しいおしゃべりが、かわいらしい女の子の声が、次々にあふれ出てくる。とても不思議な箱。小学生の低学年のころ、実はテレビが実家になかった。私にとっては、ラジオが唯一の外界の情報源だった。

 これは生まれながらに、私が直観していることだが、神経言語プログラミングという世界では、私は「聴覚型」の思考や行動をとるのだそうだ。いわれてみれば、自分の趣味嗜好でも、たしかになぁ、と実感し、納得している。

 なるほど、普通ならテレビにかぶりつきになるような、年頃であっても、家の事情とはいえ、ラジオだけを聴く日々にも、そんなに苦痛を感じることもなく、むしろ、流れてくるさまざまな番組に聴き入っていたのを覚えている。さらに時が経ち、BCLという「ラジオを聴く」趣味も楽しんだ。不思議なもので、電波に乗って地球の裏側から聴こえてくる「音」を搾り取るように聴いていた。どうやったら、より明瞭な音で聴けるかを工夫していた。もちろん、今のようにネット検索すればいいというものでもないので、詳しい人に尋ねては、トライ&エラーを繰り返していた。最初は短波放送から始まり、やがて、ステレオサウンドが超クリアに聴けるFM放送の虜にもなった。



エフエム放送の番組情報誌を見て、好きなアーチストの楽曲が流れる番組を待ち構えて、カセットテープに録音する。この一連の行為を「エアチェック」といって悦に入ってたものだ。それにしてもアルバムを丸ごと流してくれるという「おおらかな」番組が多かったこと。(笑) もちろん、しっかりと録音した。今でいうダウンロードみたいなものだが、いまと大きく違うのは、そのまんまの視聴時間が必要だということ。レコードアルバム1枚は約46分。だから、カセットテープも46分用というのがよく売れていた・・・

ああ、懐かしい。そんな話をし始めたら延々と続けられるかもしれない。いま、さまざまなラジオを物色中。FMはもちろんだが、できれば、短波放送もしっかりと受信できるやつが楽しいし、外部アンテナ使用もマストである。残念なのはあの頃のような夢あるメカメカしい(笑)、通信機型ラジオの国産新製品が皆無だということ。歳を重ねても、そういう冒険心をくすぐるガジェットに目がないのが、私たち、昭和世代の男子なのだ。
(今のご時世では、こんな表現もアウトかな? そこは大目に見逃していただければ幸いです)

喫煙のガジェット

このブログが続く限り、この類のガジェットについては、ときどき語るつもりだ。何を言われようが、私は筋金入りのスモーカーだった。少なくとも2021年の夏までは。あの入院騒動を経て、いわゆる「たばこ」を嗜むことを「卒業」せざるを得なくなった。でもまぁ、喫煙者の気持ちはよくわかるし、その「嗜み」は日常の句読点だと理解している。珈琲館や、バーカウンターで、染みわたる音楽と溶け合うように、煙をくゆらせる瞬間に、和む心情も、沸き上がる新たな発想もすべては、この「嗜み」がよききっかけとなっているとさえ思う。

おりしも、数年前から新たに興味をもって、試していたのがVAPEだ。詳細な説明は割愛するが、写真のようなMODという器具に、好みの「味や香り」のリキッドを入れて、電熱コイルで気化させて、まさに喫煙する。ニコチンを摂取したければ、プルームテックのカプセルを組み合わせることもできる。


そもそもそこまでして、煙を吸って、吐きたいのかと尋ねられるだろうけど、そのとおり、そうしたいのだ。何とも言えない、爽快感、そして安堵感を味わえるのだ。こればっかりは、その「嗜み」をきちんと受け止めなければ、理解できるわけがない。副流煙問題がなければ、私は喫煙者がここまで、肩身の狭い思いをさせられるのは、あまりにも理不尽だ(こんなことを書くことすら、憚られるような風潮が、いかがなものかとも思う。

このMODは、ずいぶんと古い型になってしまったが、それでもVAPEの愛好者の中では、けっこうな人気を維持している。詳細については、また改めて、深堀してお伝えする。

しなやかにAll You Can

2022年、幕開けしてすでに2週間が経過した。世の中的には相変わらず、「疫病」のせいで、外食したり、イベントに集まったりすることは「悪」であり、マスクこそ、最上級のマナーの「象徴」であるかのごとき、おかしな価値観が根付いてしまった。

なにかがおかしい。どこで歯車が狂ったのだろう。誤解や批判を恐れずに言えば、世の中が必要以上に「異常な潔癖症」となってしまった。「人の生命力」とは、そんなにも脆弱なものなのか?
いや違うだろう。私たちは、あまりにも「滑稽な思い込み」を植え付けられている。それとも、そんな気がするのは私だけなのか?

だが、そんな風潮に流されるのではなく、「しなやかにあらがう」。私にとって、これが当面不可避の「指針」である。大げさなようだが、様々な形でそれを表現していきたいと考えている。

思えば、昨夏。血糖値の制御不能に陥り「Ⅱ型糖尿病」を発症した。命を落とす寸前だったが、結果的には生還した。以後体調管理のために、家族の協力を支えにし、目覚ましい回復のベクトルを維持している。これも病に対しての私なりの「あらがい」方だ。

初孫の存在は、まさにそのエネルギー源だし、多彩にわたる趣味においても、「励み」が存在している。それをこういうブログや動画をつかって「表現」することを、昨年以上に充実させたいし、私にとって年に1度のライブ演奏の場であった「倉敷ジャズストリート」にも復帰を果たすつもりだ。(昨年は連続出場記録が途絶えた・・・嗚呼)

音楽といえば、 BAND-MAID。日本の宝であるロックスターを応援し始めて、すでに足掛け3年になっている。我ながら愕然としているが、有難いことに YouTubeの私のチャンネル登録者の皆さんが、200人超もいらっしゃることに本当に感謝している。

”All You Can”という番組名どおりに「できることは全て」思うがままに臨む。公私自他問わず、しなやかに時を刻み、なおかつ「不条理やアンフェア」は看過しない。 そういう心意気を込めていきたい。

楽曲と演奏から心意気が湧き出るBAND-MAIDを知り、彼女達を讃える動画チャンネルに相応しいテーマになったし、これはBAND-MAIDのみならず、私のライフワークで目指す、ホスピタリティーの源泉であると行き着いた。これから少しずつ表現し発信していくので、どうぞよろしくお願いします。

All You Can !

Fender Jazz Bass Fretless

今更だが、BAND-MAIDを推している。彼女らの「演奏力」は、天賦の才と、ひた向きなトレーニングの賜物であり、世界中のロックファンを唸らせている。リードギタリストの遠野かなみさんの、何かが憑依したかのごとく一心不乱に、繰り出すリフと佇まいに魅了されっぱなしだ。そしてベーシストのMISAは、それこそ、世界中からMISA MISA MISAと崇められている。5stringsをピック、スラップを織り交ぜまさに腑に落ち納得させられるリズムと旋律を響かせている。

私は過去に、ウッドベースを弾いていたことがあったので、その流れで40年前に購入したのが、このフレットレスのジャズベースだ。フレットの有無はどちらが正解ということではない。しかしフレットがないことで音に無限の可能性が広がるのは確かだ。いつの日かMISAもフレットレスベースを自由自在に弾きこなす日が来る、、そんな勝手な妄想をしている。(笑)

T’s ukulele

私にとって、ウクレレは友達だ。T’sブランドのコンサートサイズのウクレレを御茶ノ水で手にしてから、もう17年も経った。この写真ではわからないが、ピエゾタイプのピックアップを仕込み、プリアンプ回路も内蔵させ、エフェクターを経由してギターアンプで鳴らしている。私の好みは、リバーブが効いて、適度なディレイ効果も加えた音色だ。ウクレレらしからぬ音に、たいがいの人は少し戸惑っていらっしゃる。(笑)

でも、それでいい。いや、そういう意外性がいい。今では、DTMで伴奏を打ち込んで、数少ない機会ではあるが、ソロのライブに臨んでいる。残念ながら今年は機会を逸したが、すでにそのライブ活動も、11年を超えている。来年こそ、コロナ禍が沈静し倉敷の美観地区でも、ライブイベントが再開することを願うばかりだ。今年は体調を崩してしまったが、また日々こつこつとトレーニングを再開して、新たな楽曲にチャレンジするつもりだ。もちろん、このT’sウクレレも今まで以上に弾きこんでいこうと思う。

I’m a dispatcher.

まさに、私のような、片田舎に棲む還暦すぎの老人には、なかなか縁遠い職種。しかし今年1月から私はこの職業機会に就いている。正直、昨年の夏、60歳で勤め先の定年を迎えて以来、秋が深まっても失業状態だった。倉敷という地方都市では、なかなか再雇用の機会にも恵まれにくい、ましてやコロナ禍の真っ盛りのころなので、さまざまな面接を受けたり、派遣業社の紹介に頼ったりしたけど、全然だめだった。そろそろ、失業保険の支給最終日も迫っていたので、気持ち的にはかなり焦っていた。

ところが、1件だけ、この私を拾ってくれたのが、今の勤務先である。ヘリコプター、軽飛行機の運航、操縦者教育訓練などを生業とする、小規模な航空会社だ。とはいっても航空会社には必須の職務として運航管理というものがある。それがdispatcherなのだ。大手の定期便を担う航空会社ならば、国家資格を取得する必要もあるようだが、今の職場ではフルタイムパートという処遇なので、そこまでは要求されてはいない。ただし、職務上、「航空特殊無線技士」の資格は取得した。

というわけで、まもなくこの仕事も1年が経過しようとしている。まったく早いものだ。空の運航の安全を見守るという意味で、とてもやりがいもあり、気も引き締まる。その一方で、大きな荷物を運んで足腰を傷めるようなことはない。むしろこれまでの経歴の中で、情報処理技術者の国家資格の学習の際に理解を深めたデータベースに関するスキルが活用できている。

そのうえ、飛行場敷地内にある事務所にいるため、一日中、エアバンドを聴いていられるし、自らカンパニー無線に応答する業務もある。生来の無線オタクにはたまらない仕事だ。ほんとうにこういう機会を与えられたことを感謝するばかりだ。あと数年、せめて年金を受給できる年齢まで勤続させていただきたいと願っている。

あるべき憲法は?

いまさらだが、日本という国に、生かされている自分自身の運命に感謝している。そりゃ、完璧じゃないけど、この社会の仕組みの中で、平和に健全に暮らしてることを心から喜んでいる。今年の夏は不慮の急性な血糖値異常を発症して、危うく絶命するところだったが、その後無事生還でき、休日に初孫の顔を見に行くだけで、なんだか活力がわいてくるそんな単純だけど、ありがたい日々を味わっているからこそ、そんな風に思える。

だから改めて思う。思想・信条の違いで、あまりにも酷い「罵りあい」がSNSで繰り返されているし、相変わらず、偏向した思想を押し付けるような新聞社や放送局によって、おかしな世論誘導が目に余る。私の中で、もっとも許しがたいのは、実は「我欲にまみれた政治屋たち」が徒党を組んで、日本国憲法の改正に向けた議論を、審議拒否という形で阻止し続けていることだ。

日本国憲法は絶対的な聖典ではない。なのに、それを一言一句たりとも、変更してはならないという「護憲」を御旗にして、正義ぶっているのが上述した「我欲にまみれた政治屋」だし、それを支持する学者や評論家、著名人の中にいる。現在の「日本国憲法」を聖典のごとく、崇め奉り、その一言一句も変えてはならないと大声を張り上げる人々たちが、大好きな第9条にはいかなることがあっても、「武力による威嚇」も「武力の行使」も国際紛争を解決する手段として用いるべきではないとある。だが、それは一方で、日本国民に危害が及ぶような事態が生じたときには、どう向き合うかということについては、記されていない。

いつのころからか、しきりに「多様性」という言葉が地上波テレビでしつこく喧伝されている。ならばそれは、日本国憲法は「聖典」にあらずという、私のような考え方も「多様な価値観」の一つとして、認められていいはずなのに、多くの「護憲」の立場の人には、なぜかそれが通じない。まるで、憲法を改正することが、「国粋主義という危険な思想」かのように猛反対される。

どんなルールであっても、不備や言葉足らずなところを顧み、世の中の価値の多様化も配慮して、改善や見直していくことこそ、柔軟であり、そのルールを運用する人々に寄り添うことに通じる。国民自身がつねに「憲法の改善」をはかっていくことこそが健全な国家のあり方だし、政治家たるものは、その国民の声を真摯に受け止め適正な立法に従事してこそ、彼らの本分を果たす。

「憲法学」という学問をきわめていらっしゃる学者先生の多くにも物申したい。彼らは、私たちが納めた税金をつかって、研究活動をなさっている。国公立私立にかかわらず。学問は理系であろうが、文系であろうがすべて、そこにかかわる社会に住まう私たちにとって、有意義な貢献を果たすためにある。けっして個人の研究心を満たすだけのものではない。

「学問」「アカデミック」という名のもとに成果を上げれば、それにふさわしい社会的な地位や資格、おおくの信頼を得ることができる。それが個人だけではなく社会にも影響をあたえ、そして歴史にもその成果がきざまれ、次の世代にもおおくの遺産をのこしていく。残念ながら、日本国憲法学者の方々の多くは、どうやら、日本国憲法は一言一句たりともいじってはならない経典、聖典という研究文献としてしかみていないように思われる。

日本の国に住まう、私たちのことを学問によって本当に、よい状態に導こうという志が少しでもあるならば、このように矛盾をはらみ、本当の意味での国民の安全をどうやって守るのかということが、この日本国憲法には明確な具体的表現が皆無であるという現実から目を背けることはできないはずだ。私はネトウヨでもお花畑でもない。だからこそ、普通に大きく疑問をもっている。

国の平和と国民の命を守るための法案を審議するのが本来の国会の大命題であるならば、ほんとうに今まさに「平和な生活」を侵害され続けている。北朝鮮がおこなったあの犯罪に目をつむることはできない。まだ多くの被害者のご家族が、被害者の無事な帰国を待ち望んでいても、「拉致」されている状態から「救助」することができないのだ。


憲法学者先生にも、国会の前で、9条を守れとさけぶ人達にも、どうか、思想や信条を超えて真摯にこたえてほしい。この拉致被害者と家族を救うために、どうすればいいのか?

兵士による直接救助活動は、日本には許されていない。警察の特殊部隊を使えばいいというような安易なものではない(バカな政治家にはそういう考えをする者もいる)当然のことながら、自衛隊による救助チームなども絶対に認められない。それは、目の前に明らかに不条理な論理で勝手に隣国にはいりこみ、そこに住む人を老若男女かかわらず、とっつかまえ、船に乗せ、拉致誘拐してしまわれていて、相手の国もそうだと認めている。にもかかわらず、それを救助に行けないのはなぜか?

憲法の前文に、こう書いてあるから仕方ない。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう・・・」 は?

平和を愛する諸国民とはだれなのか?あのような犯罪に手を染め、自国の国益に有利な交渉材料として拉致被害者を利用している、そんな北朝鮮も「平和を愛する諸国民」として、かれらのもっている公正と信義を信用してやって、
波風を立てずにしておけ、とでも読み替えなければならないのか。

は? ありえないだろう! それでも、日本国憲法は、国民の安全を守っている尊い聖典なのか?

そういう「憲法」自体がもつ不備について政治家も憲法学者も、コメンテーターといわれる評論家さんも、もちろん多くのマスコミもきちんと取り上げていないではないか?

あきらかに安寧であるべき日常生活を破壊された同じ国民がいても、その尊大なる憲法は、日本以外の「諸国民の公正と信義」を信じて、おとなしくだまっていれば、世界中が平和になると書いてあるから、これを一言一句解釈もかえず、遵守することが国民の総意であるらしい。

本当にそう思えるのか?胸を張って言えるような憲法なのか?

そして何よりも、拉致被害者家族は何をもって、この状態への不満や不信感を解消しろというのか?

そして具体的に日本はどうすればいいかを導いてほしい。学者先生、シールズさん(笑)、政治屋ではなく、与野党かかわらず、すべての政治家の皆さん、そこのところをどうか真摯にとりくんで、あなた方の行動をおこしてほしい。

今はさまざまな危機の中で日本の国民を守ることについて、きちんとグランドデザインを私たち自身が意識する
必要があると思う。国益のために他国を侵略するような考え方は日本自身にはなくても、他国軍やテロリストたちが
何をしでかすかわからない。

今はそういう突発的に何かが起きるということが20世紀に比べ圧倒的に危険度合いが増しているといっていい。自国以外の「諸国民」を信じて、何もするな、ということを強いる憲法が「国民を守る」尊い聖典なのか?

ほんとうに大多数の日本国民はそれを納得できているのか?むしろ、北朝鮮拉致事件にかかわるすべてのことを、
多くの国民は「他人事」としか思っていない。政治家を筆頭に、憲法学者も、学生も、いい年を超えた大人たちも、
不条理に苦しみ、基本的人権を侵害された被害者と家族への心配りすらできていないし、見て見ぬふりをしている。

あれだけ日本国憲法が絶対のものであるとわめいていながら、その第11条、12条、13条にあからさまに違反している
のではないか。それは個別の事件だから関係ない、などと、どこかの野党の元党首は屁理屈をいいそうだが、ほんとうに「日本国憲法」を思うならば、9条よりも、この3つの条文を思い出すがいい。

そして自分たちがいかに平和な暮らしを享受する一方で、家族を拉致されて安否を気遣うことすらできないでいる
矛盾をなんとも思わない無関心さを恥じるべきだ。

ご都合いい時だけ、9条まもれ、憲法守れ、とさけび、おのれの考えにそぐわないものはくそみそバカ死ね悪魔、非国民、売国奴などとありったけの言葉で罵倒し、指をさし、顔写真を燃やし、国会議事堂内で、人にのしかかったり、どなりあったり、器物を損壊したり、、まったく、できのわるい幼稚園児以下のありさま。

そして私たちは、その様を、嬉しそうに中継する各局の報道番組を見せつけられる。物事の本質をついたマスメディアなど皆無だ。むしろゲリラ的にインターネットなどで、放送配信する志ある人たちのほうが、はるかに拉致被害者にも心遣いをしている。

しつこいようだが、今回の法案には賛成だ。しかし、これが可決されたとしても、日本は決して、戦争したいとも思わないし、戦争できる国だと勘違いすることもない。それは国際法が許さない。それこそ諸国民が許さないからだ。

だが、一方で理不尽な振る舞いをする諸国民までもその公正や信義をおもんぱかって、日本国民はたとえ目の前で
家族がさらわれていても、武力を行使せず、威嚇もせず、放棄しろとある。

完璧な憲法などあるわけがない。国民に危険が及ぼうとするときに、それが天災人災にかかわらず、そして他国からの侵略や破壊テロ行為にかかわらず、ありとあらゆる危険に対応するためにどういう具体策をとるべきかを、国民同士が、どなりあうのではなく本当にわが事として、いっしょに考えては改善していくという、当たり前の社会制度を
導くことこそが、ほんとうの日本国憲法の役割であり存在意義だろう。

だから、集団的自衛権
のことばかりではなくて、
日本国憲法がはらんでいる、
理不尽さ、法としての不備などを
自分たち力でルールに基づいて、
改善を加えていくことが
ほんとうの心ある平和国家を
めざす人の生きざまのように思う。

残念ながら、そういう意味でも
与野党かかわらず、
政治家代議士先生の
能天気ぶりだけが
目立った国会だった。

やっぱり国民のことを
「命がけで」考えているなど
という言葉が先行するような
低い品性をもっていると、
審議を放り出して、
パフォーマンスに終始し、
およそ、コミュニケーションの
お手本とはいえないような
怒号で人を恫喝し、指をさし、
暴力をふるい、大きな音をさせる。

「自民党は死んだ」と
カメラ目線でメッセージを
向けた山本太郎議員の
行為こそ、
おのれが己を自覚せず、
他者への配慮もしない身勝手な
われ関せずの姿勢をむき出しに
しているとはいえないのか?

あのような議場を
世界中にさらすことが、
あなた方政治家の生きざまか?
そして国会前のデモの画像を
交互にインサートし、
いやぁ、やっぱり強行採決と
いわざるを得ないという
ニュースキャスターの薄っぺらさ、
番組制作者のあまっちょろさ、、
すべては表現の自由として
憲法が守ってくれてはいるが、
結局、基本的人権を
踏みにじられている、まさに今、
そういう
人たちにとっては、
見るに堪えない光景だった。

想像力が欠如した者の
無責任な言動が罪深いことを
私たちはすべて、
自分も含めて
内省し、
なんとか改善しなければ
いけない。
そんな大掃除の時が
来たのかもしれない。

しつこく言うが、
私は決して戦争をしたい人間ではない。
もしどうしても、
戦争に行くことを
強制される状況が
将来あるのなら、
服従しない意思をもって
自害するつもりだ。

自分の大切に思う人たちが、
他国の戦闘員から攻撃を受ける
危機が生じたときは、
なんらかの武器をもって、
その危機を回避
する努力をすると思うが、
万が一、それがやむを得ずであっても、
人の命を殺めたならば、
結果として戦いに
勝とうが負けようが
責任をとって、
自害するつもりだ。

ただ、しつこく言うが、
そういうことは
万が一にも起こってほしくない。
決意はしているし、
それに揺らぎはないが、
基本的には何事もなく、
平和な余生を全うできることを
心から願っているのが
ほんとうのところだ。

私は右翼でも左翼でもない。
平和な日々に感謝していたい。